最近、小学校の頃の記憶がほぼなくなっていることに気がついた。そんな中、1つだけしっかりと残っている記憶がある。それは放課後に、教室でクラスメイト5、6人で、先生用の回るイスに乗ってふざけて遊んでたとき、1人の女子の指が僕の口に入り、直後その子が、僕の唾液で潤った指の臭いを嗅いだ瞬間だ。
とある日の放課後、夕日が差し込む教室で、僕は誰かが座ったイスを必死に、これでもかというほどに回していた。いよいよピークのスピードに差し掛かった時、僕は、足を滑らせて倒れ込んでしまった。すると、一緒に頑張ってイスを回してくれていた女子も巻き添えを食った形で僕の横に倒れた。そして彼女の指が僕の口に入った。唇と歯の間に滑り込む形だった。先に立ち上がった彼女が、その指を鼻に持っていくまでの実際の時間は3秒もかからなかったかもしれない、それでも倒れたまま彼女を見上げた僕にとって、自分の口に入った指が彼女の鼻に近づいていく時間はスローモーションのようにゆっくりと流れていった。それは、甲子園を賭けた決勝でフライを落とした外野手がボールを弾いてから地面につくまでの記憶がスローモーションだった、と言うのに近いのかもしれない。止めることはできないが、あの指の臭いを知られたら、僕はもう終わってしまうという確かな直感があった。そして、嗅がれた。意外なことに、嗅いだ瞬間の彼女の表情は思い出せない。一応は僕に気を遣ってくれたような普通な表情をしたようにも思えるし、露骨に歪んだ表情を浮かべたような気もしないではない。彼女を僕は好きでもなかったし彼女からも好意を寄せられてなどいなかった。それでも彼女の指は僕の口に入り、彼女は僕の口の中の臭いを知った。僕は、親にも兄弟にも知られたことのない口の中の臭いを思いもよらないタイミングで思いもよらない相手に知られたことに猛烈な羞恥心を抱き、それから10年間は思い出しては、恥ずかしさに苛まれ続けた。どうして、あんなに必死にイスを回してしまったのだ、イスを回すにしても、手だけで回して自分も回る必要なんてなかったじゃないかと幾度となく後悔を続けた。今となってはさすがに恥ずかしくなることもないが、それでも、楽しかったはずの修学旅行も、悲しかったはずの卒業式も忘れ、あの一瞬だけが、あの教室を包み込んでいたオレンジだけが鮮明に記憶に残り続けていることに記憶の残酷さを思わずにはいられないのである。